マンドリン伝来 

 

   

(本記事は筆者のブログ「QAZのつれづれ日記」の2011年7月22日付記事26日付記事編集したものです。)

 

イタリアの楽器マンドリンがいつ日本に伝来したか、手元の資料から記述を拾ってみたいと思います。

 

マンドリン黎明期の人物として比留間賢八、武井守成を思い浮かべますが、それ以前のマンドリンの存在について書かれた資料として

(1)
随想風音楽論、山田忠男著、1981.10.1
(2)
幻のマンドリン名演集(CD)の解説、工藤哲郎、1994
(3)
マンドリン物語、有賀敏文著、2003.8.8
(4)
マンドリンの日本伝来、mandolin-café (ネット情報)2007.10部分改訂
(5)
同志社大学マンドリンクラブ百年史、2010.3.6
(6)
我が国にマンドリンが導入された頃、工藤哲郎、JMUジャーナルNo.224

     2010.5.1
などがあり、このほかGMO機関誌FRETSにも記事が散見されます。

これらの資料から日本人がマンドリンを一般に公開演奏した最も古い記録として明治27(1894)の義勇奉公報国音楽会に行き着きます。

明治27年という年は7月に日清戦争が勃発した大変な年、時代を反映して戦意高揚のため何ともいかめしい名称の音楽会となっています。

 

この音楽会のことは明治27925日、音楽雑誌社発行の音楽雑誌第47号に詳しく掲載されています。
この音楽雑誌は音楽会の主催者である四竈訥冶(しかまとつじ、18541928)が明治23年に創刊した我が国最初の音楽専門誌で月刊、16銭、A5版、明治31年第77号まで続きました。 

音楽雑誌第47号は全34ページの薄っぺらで紙質も悪いものですが、誌中の広告に「本誌は東西洋の音楽に関する事項一切を網羅し毎号名家の作歌新曲を附録したる音楽上唯一の好伴侶たり」などとあります。
47号巻頭には音楽とは関係ない明治天皇の「朕茲に清国に対して戦を宣す」で始まる宣戦の詔勅が掲げられています。

雑誌の中身はさながら義勇奉公報国音楽会特集号といった趣きで、

・義勇奉公報国音楽会大意(四竈訥冶)
・報国音楽会の好況
・義勇奉公報国音楽会演奏順序
・義勇奉公報国音楽会演奏者姓名(いろは順)
・報国音楽会に就て深謝す(会主謹白)
などの記事で埋められています。

当日のプログラムは

 

 

のとおりマンドリンは4曲目の出し物で、曲目は「八千代獅子」、演奏者はメンダリン(マンドリンのこと) 琴の家小仙(四竈訥冶)、バイオリン天羽秀子、ハープ四竈富士子(訥冶の長女)の三重奏。


当時のポピュラー音楽として大衆に流行っていた中国伝来の明清楽(みんしんがく)になぞらえて訥冶はこのトリオを仙花楽と名づけたのでしょう。明清楽は日清戦争後急速に衰えていったようです。

 

マンドリンを初めて公の場で演奏した日本人は四竈訥冶、このとき聴衆が初めて聞いたマンドリンによる曲は「八千代獅子」だったということになります。

四竈訥冶については資料(4)に詳しく書かれています。

 

「八千代獅子」は、元来尺八の曲であったものを胡弓曲を経て三味線に編曲されてから好まれ箏にも編曲されています。短い前唄と後唄と、これらの間に挟まれた平易で弾き映えする長い器楽の間奏部分をもつ、いわゆる三段の手事物となっています。

これを訥冶は仙花楽用に編曲したのでしょう。

手元に楽譜がありますので弾いてみましたが、正直マンドリンで弾いて面白いというほどの曲ではありません。

 

ところで演奏会の開かれた日については上記資料(2)では926日、(4)9月、(6)826日となっています。

音楽雑誌には肝心の開催月日がはっきりと記されていません。

 

しかし雑誌をよく読みますと、元々この音楽会は19日に催行されることになっていたのですが、その3日前明治天皇の第五皇子である満宮親王薨去(別の資料から817日とわかります)のため急きょ26日に延期したことが記されています。

このことから演奏会は826日であったことが知れます。

925日発行の雑誌に926日の演奏会のことが過去形で載るのもおかしいですから9月開催はあり得ないことだと考えます。

 

四竈訥冶は音楽雑誌第46(明治277月号)で仙台にて最近イギリス人からマンドリンを贈られたと述べていますので、演奏会までほんのわずかな期間でマンドリンを習得したことになり、果たして当日どれほどの腕前で演奏を披露できたでしょうか。  

 

46号が7月号で47号が9月号ですから月刊にもかかわらず8月号が抜けていますが、音楽会開設準備で忙しく8月号が発刊できなかったことが9月号に書かれていますので、このことからも演奏会は8月だったことが推し量れます。

 

当日の演奏会収入金百円は翌日陸軍へ献納を申し出たことも記されています。

 

記事には「近来稀なる盛会にてさすがに広き弥生館も錐を立つべき余地もなく貴顕大家の令嬢を始め報国の為とて集まり会する者おびただしく、特に演奏者は皆何れも屈指の大家・・・」などと続いています。

 

弥生館は現在増上寺などのある都内港区芝公園内にあった建物のようです。

 

弥生館の在りし姿(国立国会図書館蔵)

 

実はこの演奏会以前も外国人による演奏会でマンドリンが披露された記録は残っているようで、資料(2)(6)によりますと、

 

・明治141213日アマチュア劇団により喜歌劇「真理宮殿」が上演

 この喜歌劇の中でマンドリン伴奏による朗唱があった。

・明治22530日ソーヴレー教授のピアノ演奏会

 アマチュア紳士と学生によるマンドリン、弦楽合奏、ピアノの編成でガスタルド

 ン作曲「ムジカ・プロイビータ」が演奏される。

 

明治271013日には米国のマンドリニスト、Samuel Adelstein(サミュエル・アデルシュタイン)が横浜の公会堂で演奏会を開き独奏を披露しています。

この演奏会にはアメリカ公使や公使館をはじめ、日本の政府高官や貴族とその家族等がこぞって東京からわざわざつめかけ、ちょうどその日は台風通過のきわめて悪天候だったにもかかわらず会場は満員だったと言われていますが、武井守成はこの演奏会を「何等の刺戟をも与えなかった」と酷評しています。

 

いずれにしても明治27年という年は、日清戦争はともかく私たちマンドリニストにとって、またマンドリンという楽器にとって記録に残る非常に記念すべき年だったといえます。

比留間賢八がドイツからマンドリンを持ち帰る7年前にあたります。

 

 

上記義勇奉公報国音楽会が日本人によってマンドリンを演奏した最も古く確かな記録であることから明治27(1894)はマンドリン渡来の年とされます。

今年2020年は渡来126年目となります。